JDとアポロつくった

 アポロ11号が1969年7月21日に月面着陸に成功してからもう40年以上も経った。長い間人類が果たし得なかった月面着陸という夢をこの日アポロ11号は実現させたのだ。アームストロングは言った。「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ。」と。その後、この言葉通り世界の宇宙開発は飛躍的に進歩し、数々のロケットや人工衛星が打ち上げられることになった。その意味で宇宙開発にアポロ11号が果たした役割は大きい。

 

ところで、先日バイト中に同じ学科のOさんとNさんからこんな差し入れを頂いた。f:id:kawamuge30117424:20170915112933j:image

ファオ??て、、、手づくりアポロ???

ぼくは魑魅魍魎が跋扈するのを目撃したような心境になり隔靴掻痒として阿鼻叫喚した。というのは些か、いや、かなり誇張が入っている。

 そんなことはさておき、今回はこの手づくりアポロの製作レポートをてきとーに作成したので興味がある方は見ていただけたら幸甚に存じやす。

 

 では、手づくりアポロの作り方を紹介しよう。まず、50℃くらいのお湯でチョコチューブを柔らかくなるまであたためる。次に、チョコチューブの先を切って型にチョコチューブを絞り出し、揺らして形を整える。そして、最後に冷蔵庫で30分冷やせば完成だ。そう、たったこれだけである。冷やして固めるだけ。手づくりとはなんなのか??と少し訝しく思ったが、そこは子供向けの知育菓子だ。その気持ちはそっと心の奥にしまいこんで製作に取りかかった。余談だが、私は以前バレンタインデーに手づくり(?)チョコをもらったことがある。それはアルミホイルの型に、溶かしたチョコレートを流し込んで固めたものだった。しかし、私はそれには反対である。溶かして固めるだけなら溶かさないほうがいいとおもうのだ。溶かすことによって味は確実にいくらか劣化すると思う。どうせ溶かすのなら何か他のものと混ぜて新しいなにかを作り出して欲しい。溶かして固めただけのチョコを食べるのなら市販のチョコをもらったほうが100倍マシである。わざわざ劣化したチョコレートを食べたくはない。嗚呼...こんなことを言うともうバレンタインデーは何ももらえないかもしれないなあ。それはいやだ。閑話休題。製作の話にもどろう。

 

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溶かしたチョコレートを型に流し込むNさん。嬉しそうだ。喜々としてチョコレートを流し込む様はまさに5歳児のそれである。やはり女の子はおままごととかそういうのが好きなのであろうか。

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途中でチョコが固まってきて頑張って絞り出ししていました。

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哀愁漂うアポロ

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アポロとその愉快な仲間たち(左上はもはやうんこ💩)

 

【まとめ】

製作にあたって湯煎が必要だが、しっかり湯煎できていないと途中で絞り出せなくなるのでしっかり湯煎することが必要ということがわかった。味は普通のアポロよりちょっと劣るが、まずくはない。できるだけ友だちと一緒に作りましょう。一人でやると悲しくなります。あと、最後に一つだけ言わせてください。バレンタインデーほしいです。現場からは以上です。

 

 

 

 

 前々から買い換えたいと思っていた色褪せたスキニーをようやく買い換えました。改めて見比べてみると随分と色褪せていたんだなあと思います。買い物が済んで家まで自転車を走らせていると、途中面白そうな看板を見つけました。その看板には「芹川けやき道」と書いてありました。普段何回も通っているところだったので、こんな道もあったのかとちょっと興味をそそられました。先は薄暗く、河畔には樹木が植わっていました。好奇心にまかせて自転車を漕いでゆくと爽やかな風が頬を撫でました。涼しくてすごくきもちがよくなりました。河畔には主にけやきの木が植わっていました。けやきの木はこんなにへんてこな形をしていたのかとびっくりしました。しばらく進むとけやき道は終わり、川沿いに道路が伸びていました。もっと上流に行ってみたいと思ったので、またもや好奇心にまかせて自転車を漕ぎました。しばらく漕いでいると、アオサギを見つけました。アオサギはかっこいいですね。あの絶妙にクールな感じが最高です。かっこいいなあと思いながらしばらくアオサギに見とれていました。それからまたすこし進むと知っている道に出ました。国道8号線でした。結構な距離を漕いだと思っていたのですがまだまだ道のりは長そうだと思いました。ところで、知らない道が知っている道につながった時ってなんだか感動じゃないですか?わからなかった数学の問題が解けた時のような感動だと思うんです。思いもよらないつながりを発見したときの感動があると思います。閑話休題。8号線を横切ってすこし進むと、子供達が川遊びをしていました。無邪気に遊んでいる子供達をみてすこし元気になりました。またすこし進むと、急に景色が変わりました。さっきまではアパートや飲食店などが林立していたけれど、こんどは河畔に木々が生い茂っていて視界が緑に彩られました。鳥たちや虫たちの妙なる調べが耳をよろこばせました。川の中の魚たちはきもちよさそうに泳いでいました。しばらく無意識に自転車を漕いでいるような状態が続きました。結構な時間自転車を漕いだと思います。この時点でかなり体力がなくなってきました。それでも、好奇心が勝ちました。ここまで来たのだからもっと上流に行ってみたいと思いました。前方にコンビニエンスストアが見えました。自然の景色の中にコンビニエンスストアがあるというのはこんなにもきもちのわるいものなのかと思いました。四角くて、明るくて、いかにも人工物というような感じがしました。それからまた進むと田んぼが見えてきました。空気は澄んでいました。川の水も澄んでいて細く流れていました。小さな集落が見えました。おそらくこの規模の集落ならば全員顔見知りだろうなというほど小さな集落でした。その集落に入り、水の流れをさらに遡ってゆきました。その時、視界の右隅に人影が見えました。けれど、暫くしてそれは人影ではなかったことがわかりました。わたしが見たのは猿影でした。お尻の真っ赤な猿が10匹ほどいました。猿はわたしをみてびっくりして逃げて行きました。大きなトンボもいました。ギンヤンマだったと思います。今にも生き物たちが蠢く音が聞こえてきそうなほどくらいところでした。獣害対策のフェンスらしきところまでたどり着き、もう進めないことを悟りました。フェンスの向こうには鹿がいました。鹿はこちらを見て逃げて行きました。鹿は服を着ていませんでした。猿も何も着ていませんでした。トンボも。皆裸で生きていくのが普通というような顔をしていました。なんだか自分が服を着ている事すらバカバカしく思えてくるほど堂々としていました。なんで服なんか着ているのと言わんばかりの顔でした。動物たちはすごいなあ。人間は余計なものを持ちすぎているのかもしれない。だから、みんな服を脱ごう。裸になろう。

"なにか"

 どうしても眠れない夜というものはある。もやもやしたもの、得体の知れないなにかが頭の中、胸の奥に居座っていて気分がすぐれない。ことばで表現できない"なにか"、鵺的な"なにか"が私を締めつける。でも、その"なにか"って一体なんなのだろう。これを「ふあん」と一言で片付けてしまうとどこか軽々しい感じがするし、そのふあんにもいろいろあるだろうとも思う。強い不安、弱い不安と言ったところでそれは私が今抱いている"なにか"とは違う。

 

 世界を言葉で言い表すと、言葉で言い表せないものの存在に気づく。どんなに言葉を継ぎ足そうと、言葉で言い表せないものが無限に出てくる。その意味で言葉は不完全だと思う。この世界は言葉の世界よりもずっと広い。有限の言葉で無限のこの世界を言い表せない。だから、もやもやする。でも、なんで言葉を持っちゃったんだろうなんてことは私は思わない。だって、言葉がなかったら家族や友人と他愛もない話をすることができないから。言葉がなければ友人の考えを知ることもできないし、論文なんかただの紙切れになってしまう。言葉がなければ他者の考えを知ることはできなくなる。というか、言葉がなければそもそも考えなんてものは生まれないんじゃないか。私たちは言葉で考えている。たとえば、「今日は雨だから傘を持って行こう」と考えるときには言葉で考えていると思う。言葉抜きの考えはありえない。「」このようなカギカッコがあるとしてそのなかに何か考えがあるとは私にはとうてい思えない。ただのカギカッコにしか見えない。だから、言葉と考えはセットになっていると思う。言葉が考えを作り、その考えを言葉が運ぶということなんだと思う。言葉がない世界では自分が他者の考えを理解することはできないし、そもそも考え自体が消失してしまう。そして、自分が他者の考えを知ることができなくなるならば、自分にとっての他者という存在はかなり薄い影のようになってしまうと思う。言葉はだから、他者を色濃く浮かび上がらせる働きを持っているということができると思う。私にとって他者の考えを知るのは刺激的で、他者の考えがなければ今の自分もないと思っている。だから、他者を浮かび上がらせる言葉のない世界なんて想像できない。少なくとも想像したくない。

 

言葉で言い表せないなにかは確かにある。言い表したいのに言い表せない。そのもやもやは私を苦しませる。なにかを言い表す言葉がないならなにも言わなければいいのか。語りえぬものについては沈黙しなければならないとどこかの誰かが言ったけれど、語りえぬものは語ることによってその正体が次第に部分的にでもわかってくるんだと思う。ことばは有限だと言ったけれど、それは他者という無限の可能性を秘めた存在へと私を導く切符なのだと思う。

りんごが落ちた

りんごが落ちた🍎

またりんごが落ちた🍎

またまたりんごが落ちた🍎

またまたまたまたりんごが落ちた🍎

さて、今度はりんごは落ちるだろうか

やっぱりりんごは落ちた🍎

この世に落ちないりんごなんかあるのかなあ

全部のりんごで試して見たいなあ

でもむりだよなあ

きっとすべてのりんごがおちるんだろうけどね

まあいい

今日のところはこのりんごで最後にしよう

ぽいっ

...........................。

 

 

 

 

 

 いやぁ。春ですなぁ。 春っていいですね。だって、桜も綺麗だし、風もここちいいもん。

 春は始まりの季節ですね。今日は県大の入学式がありました。新入生、ご入学おめでとう!まだ型崩れしていないピカピカのスーツに身を包んで少し歩きにくそうにしているところがすごく初々しかったです。それにしても、自分自身の入学式から一年も経ったとは信じられない。一年前の入学式のことはまだ昨日のことのように鮮明に覚えているというのに。一年ってこんなに短かったのか、、、。うーむ。大学四年間なんてあっという間に過ぎてしまうのかもしれないなあ。実は今日ブログを書く予定はなかったのだが、はてなブログからこのような脅迫状ともとれる内容のメールが送られてきたのでブログを書くことにした。そのメールがこれだ。f:id:kawamuge30117424:20170406225603p:image

眠いし今日は早く寝ようと思っていた矢先にこれだ。渋々書きはじめたはいいものの全然筆が進まない。だから、もう寝ます。おやすみなさい。

不安

 一人暮らしを始めてからもうすでに一年が経とうとしている。越してきた当初は何もなかった部屋が今ではだいぶと賑やかになっている。まあ、賑やかになりすぎた感は否めないが...。

一人暮らしを始めてすぐの頃は毎日が不安でいっぱいだった。一人で暮らすというのはこんなにも心細いものなのかと思った。やはり家族や気心が知れた友人の存在は大きいとその時実感した。不安を紛らわすために地元の友人に電話をかけまくったりしていたが今思えば本当に迷惑だったろうなと思う。ごめんなさい。そんなこともあったけれど、大学生活にも慣れ、友達もできてくるにしたがって不安は徐々に解消されていった。だが、最近また不安がぶり返してきた。なぜだろう。大学生活にも慣れ、大学での友達もできて安定してきたはずなのに。おかしい。何が私をこんなにも不安にさせるのだろう。失われた単位に対してか、それとも、教習所の期限が迫っていることに対してか。生活習慣の乱れが不安となって現れているのか。うーむ。わからない。本当にわからない。どう思う?コダック。本棚の上に鎮座しているコダックに問いかける。当然返事はない。コダックはいいなあ、不安なんて感じたことないみたいだ。まあ、なんでもいっか。不安というのは往々にして原因がわからないものだ。無理に原因を特定しようってのも骨折り損のくたびれもうけってやつかもしれないなあ。それよりも自分の好きなことをやろう。不安をこねくり回しても不安にしかならないよなあ。いっぱいドラムを叩こう。叩いて叩いて叩きまくろう。

おはようございます

あさですね

こんなにくらいけれど

あさですね

あさっていうことにしましょう

ぼくのなかでのあさです

みんなのなかでのあさはぼくにとってのひるです

べつによるがあさでもいいじゃない

あさをあさとよぶひつようはない

だからぼくはいまこのしゅんかんをあさとよぶ

じつにすがすがしいあさだ

なにかいてるんですかね

いみわかんないな

もぅ、無理。。。まじぃみゎかんなぃ、、、リスカしょ、、、、。